広島の市街地が戦争で、いかに無残で悲劇な戦災を被ったかは、いまさらここで語る必要もないと思う。
 しかし早くも広島では、終戦直後の昭和20(1945)年9月には、〈市街を東西に貫く幅百メートルの、
防災道路を兼ねた美観的な緑地帯を作る・・〉という方針が固まった。
 一方、市民の反対意見は根強く、「なぜ幅が百メートルも必要なのか?」とか、「市は一体、何を考えているんだ」、「幅百メートルとは、土地利用のムダだ」という意見が大声で広まった。
 しかし、「市民の反対がそんなに大きいなら・・」といい、この計画が縮小されたか。全然。粛粛として実行に及んだ。
 ところが、昭和30年の広島市長選挙のとき、W氏が、こんな公約を掲げて当選した。百メートル道路の実現に一大障害が出現した。
 「なぜこんな膨大な道路や施設が必要なのか。私が市長になれば、こんなムダな計画は中止し、鉄筋の文化アパートを建て・・」と、わかりやすい目先の利益を叫び、多くの民の共感を呼んだ。
 しかし広島には、敢然として百メートル道路を作るという、先見の明の為政者や賢者がいた。そして、目先の愚見に固執した意見をはねのけた。現在この場が、世界に向けて平和をアピールする、発信基地になっていることは、とっくに皆様ご承知のとおり。
 長期的な視野で、国家百年の大計の推進に政治生命をかける政治家と、人気取りだけの政治家の分別(ぶんべつ)を間違ってはなるまい。
 何年か前にも、人気取り上手な総理がいたが、いま彼が残した足跡を検証すると、「言葉で語るものは何もない」のが現実だ。