●王子製紙の社長の座を潔く明け渡す

明治6年、渋沢栄一の肝煎りで王子製紙の前身である抄紙会社ができ、翌7年から栄一は社務の一切に関して全権委任された。要するに名実ともに社長になった。栄一にとって我が子のような会社であった。ところが明治26年、この王子製紙に、三井の総司・中上川彦次郎の命を受け藤山雷太が専務として乗り込んできた。

三井は王子製紙の大株主であった。

そこで王子製紙を乗っ取る計画を画策した。

そして栄一に対して、社長の座を降りるよう勧告した。すると素直に社長の座を明け渡した。

あまりに素直に従ったので、当の藤山がびっくりしたという。

栄一にしてみれば、次のように考えた。

「王子製紙に大資本を投下した三井が、自らの手で経営を望むのは当然のことだ。誰の支配下に置かれようと、製紙事業が発展するならば、会社設立の趣旨は達成される」

視野の大きさが普通の人間とは比べものにならなかったのだ。

のちに当時、伏魔殿と言われた大日本製糖が危機に瀕したとき、藤山を起用し、見事会社を起死回生させたのだった。   

渋沢栄一には、私怨というものはなく、ただひたすらに、常に国家的見地から判断を下すのだった。